基本情報
なな
1995年1月15日生まれ(29歳)
<在宅ワーク実績>
・Instagram運用代行9件(内7件は半年以上継続案件)
・4万人アカウントの運用チームディレクターを経験
・運用、投稿作成、ストーリーズ作成、数値分析までフルサポート案件を担当
・クライアントアカウントで投稿作成開始2ヶ月で月間集客数200人増
・Instagram新規立ち上げから運用まで全て対応できる運用代行
こんにちは、ななです。
本日はWebサイトをご覧いただきありがとうございます!
はじめに簡単な自己紹介をしますと
私は元々大手企業2社で営業職を経験し、
世間的にはいわゆる”バリキャリ”の部類にあたりながらも
夫の転勤で突然キャリアを失い、専業主婦になった普通の女性です。
このブログでは一度キャリアを諦めた私が在宅ワークを始めて
会社員超えするまでの過程や方法についてお伝えしていきます。
ブログを立ち上げた理由
自己紹介をする前に
キャリアコンプレックスを抱えた女性のみなさんに
3つ伝えたいことがあります。
①未来は自分で切り開くものであること
②今できないこともやり続ければできるようになること
③家庭と仕事は両方とも欲張っていいこと
1つ目の“未来は自分で切り開くものであること”は
周りの人や環境のせいにせず、自分が叶えたいことは
自分の意思と行動で叶えるということです。
私自身、フリーランスになると決意して行動を始めてからは
抱えていたもやもややコンプレックスが嘘のように解消されて
自分史上、一番自己肯定感が高まりました。
2つ目の“今できないこともやり続ければできるようになること”は
実は多くの方がこの事実に気づいていません。
何か新しいことにチャレンジしたいと思っても、
9割の方は下記のような感情が先行します。
気持ちはわかります。
ブログタイトルで「元バリキャリ」なんて言葉を使っている私ですが
家庭環境が特別ハイスペックだったわけでもないですし、
会社員時代に特別仕事ができたわけでもありません。
でも、未経験スキル0の状態からでも「やり続けたこと」で
在宅ワークで会社員時代の自分の月収を超えられるようになりました。
このブログを通してさらに具体的にみなさんに伝えていきますので
楽しみにしていてくださいね!
3つ目の“家庭と仕事は両方とも欲張っていいこと”は言葉の通りです。
今の時代、「結婚したからキャリアを諦めなければならない」という固定観念は
もう崩壊しかけています。
女性であっても、結婚・妊娠・出産をしても自分が望むなら
キャリアを続ける選択肢を選べる時代になりました。
私も「結婚生活を優先するために」と会社を辞め、
一度はキャリアを諦めましたが、自分がまた仕事をしたいと願って
行動に移した結果、家庭も仕事も両立する未来を手に入れたのです。
自分の心に蓋をして「夫のため」「子どものため」と言い聞かせていませんか?
ドキッとした方は、今日から「自分の気持ち」を尊重していきましょう。
前置きが長くなりましたが、
なぜ私がこの3つのことを伝えたいと思い、このブログを立ち上げたのか、
これまでの生い立ちを含めてお伝えしていきます。
ブログを立ち上げるまでの経緯(生い立ち)
家族構成、幼少期
ブログタイトルを見た方の中には、
私のことを「元々すごい人なんじゃないか」と思った方もいるかもしれませんが
まったくそんなことありません。
私は長崎県のド田舎の平凡な家庭の生まれです。
父は公立小学校の教師、母は専業主婦。
5つ上の兄、3つ上の兄、1つちがいの姉の4人兄妹の末っ子だったため、
一つ恵まれていたことがあるとしたら
昔から「競争意識」が芽生えていたことでしょうか。
食べるもの、着るもの1つとっても戦場のような環境で
「自分がほしいものはほしいと言って行動をしなければ手に入らない」
という状況下で育ちました。
小学校時代
4歳から7歳まで父の転勤で離島で過ごしており
小学2年生になるタイミングで地元に戻りますが、
小学校時代は数々の挫折を味わいます。
・転校して早々クラスのボスに目をつけられていじめられる
・運動音痴でぶくぶくまるまる太っていたおかげで
2年生のマラソン大会はビリから2番目の結果で恥をかく
・姉の影響で3年生からバスケ部に入部するもセンスがなく
6年生で卒業するまで周りのメンバーとの差に悩む
当時の私は気が弱く、周りにはっきり意見が言えない小心者。
太っていたことで自分に自信を持てない小学生でした。
学生時代は容姿や運動に対するコンプレックスの塊で
この後も長年自己肯定感が低い人間として育っていきます。
中学時代
正直、人生の中で一番キツかったのは中学時代かもしれません。
バスケ部と陸上部を兼任させられ、地獄のような部活漬けの日々。
運動が嫌いで苦手だった私には苦痛で苦痛でたまりませんでした。
何より辛かったのは、バスケと陸上どちらにおいても
自分のレベルが中の下だったこと。
私は本当に運動の才能がないんだなぁと
14歳の頃には諦めモードに入っていました。
そんな私が唯一できたことは勉強。
といっても1学年60名程度の田舎の学校で
小さな井の中の蛙でしかありませんでしたが
テストの結果は常に学年1位でした。
でも、唯一の取り柄だった勉強も
高校に入ってまた挫折を味わいます。
高校時代
地元の進学校に入学。
入学してすぐに感じたのは
「やっぱり上には上がいる。」という事実。
できる人との差が大きすぎて
1番を目指そうだとか絶対いい大学に入ってやろうだとか
そんな気持ちは心の奥底にそっとしまいました。
そして、勉強から逃げるかのように
当時一番強い関心を示していた服飾系の道に憧れるように。
高校3年生の夏、勇気を出してその気持ちを父に打ち明けた結果、
まさかの大激怒で猛反対。
そして言い放たれた言葉が
「国立大学のまともな学部以外認めない。そうでないなら学費は出さない。」
結局、私の夢や希望は捨て去られ、
父がいう通りに文系だからと文学部のある大学に進学することとなり、
決定力のない自分が情けないと感じながら地元を離れることに。
大学時代
地元長崎を離れて長野の大学に入学後、一人暮らしをスタート。
前述の父との一件があったため、もやもやした気持ちを抱えていた一方で
大学では自分の価値観を大きく広げてくれる経験を積みます。
・全国各地から集まってきた個性豊かな友人と夜な夜な会合
・私のハードワーク思考の礎となった居酒屋のアルバイト
・好きがこうじて始めたアパレル接客のアルバイト
・1対1で生徒と向き合う塾&家庭教師のアルバイト
大学時代を一言で表すと、アルバイト漬けの4年間でした。
この経験のおかげでいくつかの気づきを得ました。
・自分が頑張ればお金を稼ぐことができる
・私は人と話す仕事が向いている
・クリエイティブな仕事をしていると楽しい
「よし、社会人になったら自分の努力で収入を上げられる環境で働こう。」
と決め、住宅営業というイバラの道を選ぶことに。
地元の凝り固まった狭い考え方と違い、周りの友人の多様な価値観に影響されて
大学を卒業する頃には「自分の意思で行動して未来を切り開く」ことの
大切さを実感し、今の考え方の基盤が出来上がりました。
社会人〜住宅営業時代〜
2017年4月、大手ハウスメーカーの営業として入社し
大学から引き続き長野県へ。
「稼いでやる」と強い意気込みで入社したにも関わらず、
住宅営業時代の成績は全国の同期の中で「中の下」。
決して順風満帆と言える会社員生活ではありませんでした。
・「売上が上がっていないのに休むのか」と先輩に言われ休日出勤は当たり前
・ノルマを達成できずボーナス0を経験
・身だしなみにはお金を使えとスーツやパンプスに大金をはたき常にカツカツの生活
水木の平日休みもまともに休まず働いた結果
「このままだと結婚も妊娠も出産も一生考えられない」という結論に至り
逃げるように転職活動を開始。
そうなんです。
世間一般的には大手企業に入社したバリバリのキャリアウーマンと見られていても
その実態は競争社会に疲れて弱音を吐いて逃げた女性でした。
それでも、お金を稼ぎたい、安定した生活を手に入れたいの一心で
次の職場もまた大変な道を選んだただの馬鹿野郎です。
社会人〜広告営業時代〜
セカンドキャリアとして選んだのは人材会社の広告営業。
しかも配属先は競争率の激しい横浜。
意識の高い中途入社社員として妙に期待されていたものの、
入社した2020年3月はコロナの始まり。
入社直後はコロナの影響もあって営業を実践する場が少なく、
なかなか新規契約が取れず焦りともどかしさで空回りする日々。
毎日朝9時から夜22時頃まで必死に働くものの、
仕事に厳しい鬼上司から「まだ契約取れないの?」と詰められストレスが溜まり、
会社のトイレで嘔吐することもありました。
最初の半年の成績はぶっちゃけ下の上。
思い描いていた仕事ができる女性にはなれないと、ここでも諦めかけていました。
それでも、突然これまでの努力が実るタイミングが訪れ
1週間で3件の新規契約を獲得。
正直、辞めたいと思っていた気持ちが一気に前向きに変わり、
ようやく会社員としてこの仕事を続けながら
この先も長く働く選択肢も視野に入れ始めた頃
当時お付き合いしていた彼からのプロポーズを受け、
仕事と結婚を天秤にかけることに。
彼は長野、私は横浜。
遠距離恋愛からこれから一緒に夫婦生活を送るためには
どちらかが合わせなければならないのはわかっていたため
話し合いの末、私が会社に異動願を出すことで折り合いがつきました。
1年以上希望を通し続けた結果、2022年12月の段階で
「長野行き、ほぼ確実に通りそうだよ」と上司からの朗報。
これから夫婦共同生活を送れることに喜びを感じつつ
キャリアを続けた先に妊娠・産休も視野に入れて働いていこうと
異動に向けた引越し準備を進めていた頃、
今回のブログを始めたきっかけともなる
キャリアを諦めざるを得ない出来事が起こりました。
2022年1月下旬、突然夫から
「海外転勤の話がきた。行ってみたいと思ってる。」の一言。
当然その言葉の意味は「仕事をやめてついてきてほしい」だったため
頭が真っ白になりました。
「私は何のために長野行きを頑張って通してもらったの?」
「これで辞めたら私は今まで何のためにこの仕事を頑張ってきたの?」
ただ一方で
「このきつくてしんどい生活から抜け出せる」
「夫と一緒に住めるのは嬉しい」
「海外は行ったことはないけど、意外とおもしろいかもしれない」
のような気持ちが芽生えたのも事実です。
悩む期間がほぼない中、数日後には会社に退職の意向を伝えて
私のこれまでのキャリアをあっさりと手放す形になりました。
専業主婦時代
2022年4月、あっけなく専業主婦となってすぐに感じたのは
「夫に許可をとる行為の違和感」。
夫の仕事を優先したからとはいえ、
私は仕事を辞めてこれから養ってもらう身。
夫に「これ買っていい?」「〇〇してきていい?」と
全てにおいて許可を得ることになり、経済的に依存する状態に。
今までに感じたことのない
生きづらさを感じるようになりました。
そして6月についに海外へ渡航。
慣れない東南アジアでの暮らしにバタバタするかと思いきや、
2週間もすれば何となく生活はできそうだとイメージが沸いて
渡航前の不安は吹き飛んでいました。
「できないこともやればできる」という価値観も
海外生活を始めたおかげで身についたものです。
でもそれを乗り越えた後に直面したのが
またしても経済的依存することへの辛さと
「やりがいのない毎日の退屈さ」でした。
物心がついてからこれまで
勉強や運動、仕事など何かしら頑張る目標があって
それに向けて努力をする生活を送ってきた中で
「働かなくていい」「勉強もしなくていい」という状況は
生まれて初めての経験でした。
責任感や使命感からは解放されたものの、
鳥籠の中に閉じ込められた気分になるほど「自由がない」と感じるように。
これこそが、私が在宅ワークを始めたきっかけです。
専業主婦になったことで
・ほしいものをほしいと言いにくくなった
・夫に経済的に依存することで負い目を感じるようになった
・毎日どうやって過ごそうかと考えることが辛くなった
という負の感情が生まれた結果
「働いていた時の自分の方が好きだったな」という想いが強くなりました。
「もう一度仕事がしたい」
「自分で稼いで自分の好きなものを買いたい」
「没頭できる何かを見つけて毎日にやりがいを感じたい」
そこから在宅でできる仕事がないか探し始めて出会ったのが
「インスタ運用代行(※)」でした。
※Instagramで商品やサービスの集客を行いたい企業や事業主を対象に
投稿作成や運用を代行するお仕事
私がインスタ運用代行でどうやってスキルを身につけ、
収入を得られるようになったかは今後の記事で具体的にお伝えしていきます。
最後に
前置きが長くなりましたが、これまで語ったように
私は特別何かができたわけでも、特別いい家の生まれだったわけでもありません。
仕事で大した成績は残していなかった平凡な私でも
一度キャリアを諦めた後でも自分の力で再びスタートラインに立って
新しいキャリアを築くことに成功しています。
私が在宅ワークで会社員超えできるようになった具体的な方法と
初めの方でお伝えした下記の3点について
①未来は自分で切り開くものであること
②今できないこともやり続ければできるようになること
③家庭と仕事は両方とも欲張っていいこと
これから具体的に発信していきますので
楽しみにしていてください!
最後までお読みいただきありがとうございました。